太田衣のエッセイ

男性です。ほろよいに任せた雑談、日記、思っていること。古の記憶の発掘。記事内にプロモーションが含まれることがあります

いじめという言葉が使われるのを嫌がる人がいる

 なぜか「いじめ」って言葉を狩りたい人がいるんです。

 

 ニュースとかに対して『「いじめ」って言葉は生ぬるい。実際おこなわれているのは、暴行やら傷害やら殺人ですよ』っていう人たちがたま~にいる。

 

 ですけど、僕は、むしろ「いじめ」っていう言葉はそんなに生ぬるいんですかね?っていう風に思うんですよね。「いじめ」という行為を生ぬるい行為だと思っている人たちって、たとえば「からかい」「ドッキリ」みたいな、本人の許容によって、ギリ犯罪行為になっていないみたいな行為の類語として「いじめ」を置いているんでしょうか?

 

 そもそも「いじめ」と暴力行為って、別の軸の言葉なんですよ。

 

 たとえば、窃盗という犯罪。小売店から商品を窃盗すれば「万引き」、家主の不在を狙って家財を窃盗すれば「空き巣」、通りがかりに持ち物を窃盗すれば「ひったくり」。盗み一つとっても、環境や状況によって別の呼び名があるというだけであって。

 

 「いじめ」という言葉は、暴力の激しさの大小や、肉体的か精神的かみたいな行為の方向性のことは含意してないんです。「いじめ」という言葉の中心は、暴力行為が会社や学校など、閉鎖した集団内で行われました、ということなんですよね。

 

 もしかして「いじめ」という言葉を使われたくない人の中には、なにか過去に思い当たる節があるのかなぁ、その記憶から目を背けたいのかなぁ、みたいな邪推も邪推なのですが、そういうことまで考えてしまったりもします。あれはいじめではあったけれども、暴力行為ではなかったよ、と。そんなことはないんですが。

 

 過去に後ろめたい記憶があるのであれば、それはきっとターゲットとなってしまった人の許容か忍耐か諦めによって、罪に問われていないだけであって、きっと「いじめ」でありつつ、精神的・肉体的、激しさの大小あれど、暴力行為ではあったんだと思います。

 

 生物の集団が閉鎖されていると、いじめのような行動がどうしても発生してしまうことも聞いたことがあります。集団の内の暴力行為であるところの「いじめ」がどういう過程で発生しました、という報道は、受け手の私たちとしては、苦しいし悲しいことなのですが、社会的にそういった課題を克服するため、絶対に必要な情報ではあると思うのですよね。

 

 最初に戻りますが、「いじめというレベルを超えて、傷害とか暴行である」である、というのは、こういった感じでなんだかなあと思うんです。あなたは、どう思いますか。